お箸の冒険【料理あそび憲章】

料理の「り」の字もしらないシロウトが、料理を「あそび」という視点から捉え、
極めてまじめな「料理あそび」の精神にのっとり、お酒の肴づくりに敢然と立ち向かう無鉄砲な冒険(?)ではある。
だからして、出来上がった料理及び、その味については一切責任を持たないものとする。
以下、料理についての覚書をクダクダと並べる。


(1)おいしいものを食べたかったら、自然を守ろう。

(1)空腹を満たすためだけの料理の時代は終わった。時と場合によっては、そういう状況に遭遇する場合もあるが、できれば極力避けたいものである。そういう状況が長く続くと、身体に負担を強いるばかりか心も荒んでくるように思われる。空腹を満たすためだけの料理の時代が来ないことを祈りたい。

(1)料理にルールは、いらない。ルールは、料理あそびのじゃまになる。ほしいのは、火と水の使えるちょっとした場所と、ちょっとしたコツと、そして、たっぷりの遊び心。それでよしとしたい。

(1)「おいしい料理」という時、そこには落とし穴がある。おいしければ、それでいいのか。その料理は、身体によいのか。身体が欲しがっている料理なのか。否。身体にいい料理こそ、ほんとうはおいしいのである。身体が喜ぶ料理こそ、「おいしい料理」と呼ぶのが正解ではあるまいか。

(1)なぜ、小学1年生に料理の時間がないのだろう。料理をつくることだけが料理ではない。料理を食べることが、料理の第一歩ではなかったか。どんな学問よりも、まず食べること。上手に食べることが優先する。そういう観点からすれば、生まれた時から、ひとは料理を学んでいるのだ。

(1)料理は、どこから料理というのだろう。例えば、ここにきゅうりがある。ポキンと折ったら、料理か。水で洗った時か。包丁で切った時か。それとも、食材として八百屋さんの店頭に並んだ時か。あるいは畑で収穫された時か。種を蒔かれた時か。これは、酒の席の話題として結論は出さないほうがいいのである。

(1)赤ちゃんにとって、いちばん初めに出会う料理の先生は、お母さんである。子どもはお母さんがつくったもの、あるいは買い与えたものしか食べられない。お母さんは料理の先生としても責任重大なのである。

(1)「食べる」というのは、とても重要な行為である。ふつう、ひとは一日三食だ。一日に三回も食べるのだ。顔を洗うのは、朝起きた時、それに寝る前の二回かな。朝だけ、っていうひともいるでしょ? 「食べる」というのは、とても重要な行為である。だから一日三食なのだ。

(1)料理なんて簡単だ。難しくするのは、それを食べたとたん、突然、料理評論家に変貌する人種たちだ。

(1)料理なんて簡単だ。それを商売にしなければね。

(1)水や火、包丁やまな板がなくたって、料理はできる。例えば、レタス1つ買ってきて、上の葉を2〜3枚はいで、両手でバリッ、バリッと割れば、レタスサラダの完成だ(認識の違いもあるが)。そのままでも充分おいしいけれど、あとはお好みだ。塩でも、マヨネーズでも、ドレッシングでも、自由にかければいい。

(1)料理ができないのではない。やらないだけだ。料理は難しいという観念は捨てなければいけない。

(1)スパイスを2種類使うと、味は3倍に広がる。料理は足し算、掛け算だ。

(1)料理に賭けるプロがいる。料理をあそぶシロウトがいる。プロに失敗は許されない。失敗を笑って済ますことができるのは、もちろん、シロウトの特権だ。

(1)「食べる」とは、人間以外のいのちをいただくこと。「料理」とは、人間以外のいのちをおいしくいただくこと。人間以外のいのちに感謝したい。

(1)料理がマンネリ化したら、スパイスを変えてみるといい。舌が仰天することがある。スパイスは、味の刺客だ。

(1)鮮度のいい食材には、スパイスを拒否するものがある。

(1)新しい料理をつくるのは、前頭葉だ。

(1)高価な料理だからといって、無理においしく感じようとしてはいけない。値段を食べてはいけない。あくまで料理を食べよう。自分の舌を信じよう。


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